title        

ー本文紹介ー

「鈍刀を磨く」
逆境に負けず輝くように生きる被災地の子どもたちと四年間暮らし、郷里の一関市に帰ったのですが、被災地で出会った子どもたちのことは忘れられず、彼らのことを一人でも多くの人に伝えたいという思いから、機会があれば、可能な限り被災地の話をしています。

次の文章もその一つで、事務局を担当していた学警連機関誌に、「鈍刀を磨く」と題して寄稿させて頂いたものです。全文をそのまま掲載させて頂きます。 

震災後のことですが、被災地の中学校に2校4年勤務しました。三陸沿岸には、以前にも14年勤務。かつての教え子、仮設校舎で暮らす生徒や保護者のことが気掛かりで、不安を抱えての赴任でした。

最初の学校は、半数近い生徒が家を失い仮設住宅で生活。被災生徒は182名に上り、ほとんどの生徒が身内か知人を失っていました。当時の資料ですが、学区内の死者・行方不明者は1,278人。町民の10人に一人が亡くなっていました。次の学校も8割の生徒が被災し、昨年の年明け、仮設住宅で暮らす生徒がやっと5割を切りました。

ところが、この震災のど真ん中ともいえる学校に、朝は「おはようございます」。廊下ですれ違うときは「こんにちは」。下校時には「さようなら」。と、一日に何度も挨拶を交わしてくれる生徒たちが待っていました。声を荒げるような場面は皆無。修学旅行を楽しみ、体育祭に汗を流し、合唱も見事でした。赴任前には予想できなかった光景。私には奇跡に見えました。

そんな中で特に印象に残ったのが、仮設校舎の廊下に雑巾がけをする生徒です。彼女は、母親を失い、仮設校舎に入学し、仮設校舎から巣立っていきました。昨秋、新校舎が完成し、仮設校舎は取り壊されましたが、彼女にとっては、生涯の記憶に刻まれた唯一の「校舎」でした。

その彼女が廊下に膝を着き、袖をまくり上げ、仮設校舎の廊下を一心に拭き続ける姿を見ていると、詩人坂村真民の「鈍刀を磨く」という詩に重なるのです。

 鈍刀を磨く

 坂村眞民

 鈍刀をいくら磨いても
 無駄なことだというが
 何もそんなことばに
 耳を貸す必要はない 
 せっせと磨くのだ  
 刀は光らないかもしれないが
 磨く本人が変わってくる 
 つまり刀がすまぬすまぬと言いながら
 磨く本人を 光るものにしてくれるのだ
 そこが甚深微妙(じんしんみみょう)の世界だ
 だからせっせと磨くのだ

仮設校舎の床が、彼女に「すまぬすまぬ」と言っているようでした。鈍刀を磨き続ける刀研師のように、床よりも、彼女の方が輝いて見えました。

被災地に勤務することで、偶然出会った奇跡の光景。奉仕、勤労、感謝の気持ちが自然に行動に現れる生徒たち。「震災で我々はすべてを失った。言葉は悪いかもしれないが、唯一得たものあるとすれば、それは子ども(生徒)たちだ」と地元の方は語ります。

普段は秘められた子どもたちの力。豊かな自然と、地域、家庭という大きなゆり籠で培われてきた優しさ、信念、決して挫けず希望をもって生きようとする底力。それが、逆境の中で見事に開花した。そのことを肌で感じながら被災地を去りました。

子どもたちが秘めている底力、これは被災地に限ったことでありません。岩手の子どもたちが、今日も、この瞬間も、地域の中で、家庭の中でしっかり培い続けている力です。 

被災地で出会った光景は、未来をデザインする子どもたちへの期待感、希望を大きく膨らませてくれました。

町の復興計画では新校舎が完成するのは震災から4年後だったので、入学式に出会った生徒たちは、仮設校舎に入学し、仮設校舎から卒業していく生徒たちでした。私たちが仮設と呼んだ校舎は、彼らにとっては生涯唯一の中学校時代の校舎なのです。

東日本大震災が日本人の働き方や生き方を変えると言われたように、被災した生徒たちが「仮設校舎から日本を変えようとしている」そんな気がしてなりませんでした。

仮設校舎を熱心に水拭きする彼女の姿を忘れることはないと思います。

鈴木利典
岩手堅田財団理事
元大槌中学校校長・元気仙中学校校長