ー本文紹介ー
東日本大震災の時、釜石市立東中学校と、隣接する同鵜住居小学校の児童生徒が全員、津波から避難し無事だったことから、当時、「釜石の奇跡」として注目を浴びました。しかし、「震災から僅か二年目の三月、釜石市は庁議で「釜石の奇跡」を使用しないことを申し合わせていました。公文書を含め庁内では「釜石の出来事」に改められたのです。
「釜石の奇跡」も、庁議で「釜石の出来事」に改められたことも、どちらも、私自身が見聞きしたことではなく、すべて、新聞やインターネットから知り得た情報です。釜石でいったい何が起きていたのか。「釜石の出来事」に、私は自分の「情報を解釈する力」を試されました。
当時、「釜石の奇跡」は報道等で度々紹介されていたことから、私は、教育センターの企画調整担当として、関係者に「岩手県教育研究発表会のパネリストとして登壇して頂けないか。釜石での取り組みを県内の先生方と共有したい」と打診していました。
しかし、関係者の登壇は実現しませんでした。後で分かったことですが、釜石市が「釜石の出来事」と改めたように、すでに関係者の間では「釜石の奇跡」という言葉と、その加熱気味の報道に違和感を抱いていたようです。
登壇の話が上手くいかなったのは「釜石の奇跡」という話題性だけを頼りに、その背景をよく調べないでパネリストをお願いした私の責任でした。
釜石市が「釜石の出来事」と改めた理由の一つは、釜石市では学校管理下外とはいえ津波で児童ら子ども五人が死亡し、「釜石の奇跡」の舞台となった鵜住居小学校に勤務していた職員が行方不明になっていたことでした。「奇跡」と称賛されることをつらく感じる遺族からの申し出もあったと言います。亡くなった児童のこと、行方不明になったままの職員の家族の気持ちを考えれば「奇跡」として取り上げて欲しくないという気持ちは良く分かりました。
もう一つの理由は、「釜石の出来事」は、日頃の訓練や防災教育の当然の「成果」、「賜物」であり、「奇跡」ではないというものでした。こちらの主張もよく分かりました。
いずれの理由にせよ「釜石の奇跡」というタイトルでのパネリストの登壇は、釜石側としては受け入れが難しかったのです。テレビや新聞の報道からは、思いもよらない反応でした。
報道からの情報とは別に、沿岸各校の当日の避難行動の様子が次第に明らかになると、「釜石の奇跡」に対する私自身の見方も、少しずつ変わり始めました。
次第に明らかになったのは、これまで述べてきた通り、釜石市に限らず、岩手県では、あの津波で学校の管理下にいた児童生徒は一人も犠牲者が出ていなかったことです。津波で校舎が全壊した25校を始めとして、県内の児童生徒は全員無事避難していたのです。
つまり、「釜石の奇跡」の「奇跡」の意味が、関連本の表紙にもなった「『犠牲者ゼロ』」を生み出した」ことを指すのであれば、「奇跡」は釜石だけではなく、本県のすべての学校で起きていたことになるのです。先に紹介した4度も避難場所を変えた気仙中学校や、完成したばかりの橋を伝って二階から県道に避難させた越喜来小学校も全員無事でした。
それでも、学校管理下外とは言え、あの津波で岩手県全体では91人の児童生徒が死者・行方不明者となり、釜石市でも児童生徒が命を落とし、職員が行方不明になっています。しかも、県内で教職員は3名が犠牲になったのですが、そのお一人が「釜石の奇跡」と呼ばれた学校の事務職員だったのです。そのような状況だったので、私が知る限りですが、本県の教職員で「奇跡」を口にされる人はいなくなっていました。
報道やネット上では、今でも「釜石の奇跡」と「釜石の出来事」の二つの言葉が交錯しています。どちらを使用するかは、この出来事との関わり方によって違っているようですが、私は、庁議で「釜石の奇跡」を使用しないことをいち早く決めた当事者である釜石の人たちの思いを尊重するように変わりました。
また、津波の襲来が繰り返される三陸沿岸の学校は、どの学校も津波を想定した避難訓練や防災・減災教育に何十年と真剣に取り組んで来ていました。
「津波は必ず来る」と教育長自らが登下校中の避難訓練の陣頭指揮に当たった大船渡市も然りです。過去の津波をテーマにした自作劇を発表し続けてきた学校もありました。
「釜石の出来事」を、「奇跡」ではなく「日頃の訓練や防災教育の成果」と捉えるのと同じように、学校管理下内の県内の児童生徒が全員無事避難できたのも、各校の日頃の訓練や防災教育の「成果」、「賜物」なのです。
余り知られていないことですが、第一章で紹介した広田中学校の三年生は、避難の途中で、校庭に隣接する保育園の先生に出助けする形で二、三歳の園児を抱っこしたり、両脇に抱えたりしながら、急こう配の草むらを駆け上がっていたのです。
保育園にも高さ約1.2メートルの津波が押し寄せましたが、中学生に抱えられた園児も含め39人の園児たちは全員無事でした。彼らの勇気ある行動に対して、公益財団法人社会貢献支援財団から広田中学校に「社会貢献者表彰」が授与されています。
小学生の手を握り締めて避難した釜石市立東中学校の生徒の行動は度々報道されていますが、同じように、広田中学校の生徒の行動も、広く語り継がれるべき行動です。
震災前から、「想定にとらわれるな」、「最善を尽くせ」、「率先避難者たれ」を合言葉に避難訓練、防災・減災教育に取り組んできた釜石の子どもたちの実践と、避難時の行動は、高く評価されるべきですが、それが、県内各地で起きていた避難劇と照らし合わされることなく、あたかも、釜石だけの「奇跡」のように取り上げられ、当事者の釜石市が、「奇跡」から「出来事」に言い換えた過程を探ってみると複雑な思いになります。
「釜石の出来事」は情報を正しく読み解くことの難しさを教えています。